観光名所 松本城が凄い綺麗!

 旅行会社調べの「日本の城ランキング」において第五位にランクインしたのが、この松本城です。その城下町たる町並みも非常に素晴らしいものですが、松本城自体も、日本には4つしか無いと言われている国宝の天守を持つ城となっているのです。安土桃山時代末期から江戸時代初期に建造された城で、天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されています。松本城と呼称される以前は深志城《ふかしじょう》と言われていたそうですが、市民からは別名烏城《からすじょう》とも呼ばれていてています。しかし文献上には烏城という表記は一切ありません。

歴史

 戦国時代の永正年間に、信州守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれています。武田氏滅亡後の1582年、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては当初木曾義昌が支配していましたが、同年6月には越後上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還します。その後、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名したと言われております。

 戦争用というよりかは接待用の作りになっていることは、こうした徳川家康の影響力があったこと原因かと思われます。

松本城の特徴

 松本城は、三重の水堀に囲まれています。内側から「内堀」、「外堀」、「総堀」と呼んでいます。ただし、本丸の北側では内堀が外堀と接続していて外堀と一体化しています。内堀に囲まれた中が「本丸」、外堀に囲まれた中が「二の丸」、外堀と総堀の間が「三の丸」です。本丸には、天守の建物と御殿(本丸御殿)があり、二の丸には、御殿が2棟(二の丸御殿と古山地御殿、のちに古山地御殿の西に新御殿が建つ)と米蔵などの蔵が建ち、西側部分には茶屋などが設けられていた時期もありました。三の丸には家老をはじめとする上中級の藩士の屋敷が置かれていました。総堀の城側には土塁が築かれその上には塀が廻っていて、城内を容易に見通すことはできませんでした。

総堀の外には城下町が広がり、善光寺街道が南から北に通っていました。善光寺街道沿いには町人たちの家が立ち並び、その外側には寺社地が置かれていました。

城への出入り口は5ヶ所あります。大手門には枡形を備え、他の東・北・北不明(あかず)・西不明のそれぞれの門の前には馬出(うまだし)を配しています。この馬出の形は武田氏の馬出の系譜をひいているといいます。城への通常の入り口は東門で、そこから太鼓門、黒門、本丸へと進みました。城下の北部に住んだ武士たちは北門が通用門でした。

 これらの城内及び周辺の城下町は、明治時代に大火に見舞われ建物の多くを失いましたが、町筋や町名に当時の面影を残しています。

天守の建造年

 そんな国宝とされている天守に関してですが、製造した年数に関しては数々の説があり一つには定まっていないようです。天正19年《1591年》説」、「文禄3年《1593年》説」、「慶長2年《1597年》説」、「慶長5年・6年《1600年-1601年》説」、「慶長20年《1615年》説」等といった説が存在していて、大天守の建造年に関しては正確な年数が未だにわかっていないとのことです。

天守の傾き

 実際の所このような天守若干傾いていて、それに関しては「貞享騒動という事件の首謀者・多田嘉助が磔刑に処せられる際、天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いた」といういわくが語られておりますが、実際の城が傾き始めたのは明治時代からということでその時期になってから作られた話だと言われております。現在では弱い地盤である上に、基礎工事をにより埋め込まれた支持柱が老朽化してしまったことにより、自重に耐え切れず沈み込んでいると言われております。

松本城の魅力

 松本城は日本に4つしかない、国宝の天守を持つ城で、造形美と気品に溢れ時代の流れを超越した風格をもっています。戦国の防御拠点としての悠々しさもさることながら、やはり、中に入った時の、木の重厚な造りが時代の流れを感じさせます。さらに天気の良い日には、近隣の北アルプスの山々を望むことができ、松本城周辺からは天守閣と内堀と山並みのコントラストが美しい景色を見ることができます。

つらなるつながる信州『長野県』はこんな県!